板谷波山 (いたや はざん)
プロフィール
1872~1963年
日本の陶芸家。
陶芸の芸術性を追求した、日本の近代陶芸の牽引者です。
波山の号は筑波山に由来し、地元である茨城県に向ける愛郷心が窺い知れます。
波山は独自に葆光釉という釉薬をつくり、絵付けをした上から釉薬を掛けて、つやを消すことで淡く幻想的な作風を生み出しました。 作品は白磁、青磁、彩磁にレリーフ文様を施したものなど、繊細なものが多くあります。 陶芸家では初の文化勲章を受賞、人間国宝の候補に挙がるも辞退しています。
板谷波山の生涯 ― 日本陶芸を芸術へと導いた巨匠
板谷波山(いたや はざん、1872年4月10日〜1963年10月10日)は、茨城県下館町(現在の筑西市)出身の陶芸家であり、日本近代陶芸を美術の高みにまで引き上げた偉大な芸術家です。本名は板谷嘉七(かしち)。号の「波山」は、郷里から望む筑波山にちなんで名付けられました。陶芸家として初めて文化勲章を受章し、「陶芸の聖者」とも称されています。
幼少期と芸術への志
文化人だった父の影響を受け、文人画や骨董に親しみながら育った波山は、商家の跡取りとなることを望まれながらも芸術の道を選びました。1889年、東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科に入学し、岡倉天心や高村光雲といった近代美術界の重鎮たちに学び、造形感覚と芸術理念を養いました。
教育者から陶芸家へ
1896年、石川県工業学校に彫刻教師として赴任しますが、翌年には彫刻科が廃止され、代わりに陶磁科を受け持つことに。これが波山にとって陶芸との本格的な出会いとなり、やがて陶芸を自らの表現の場とする決意を固めていきます。
独立と試練の時代
1903年、教職を辞し、東京・田端に窯を築いて独立します。しかし当初は生活に困窮し、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科で嘱託講師として働きながら、自らの作風を磨いていきました。この苦難の時期、東京美術学校時代の仲間たちが「波山会」を結成し、彼を支援したことは、波山にとって大きな支えとなりました。
技法の確立と高評価
波山は、彫刻の素地を活かした繊細な「薄肉彫り」や、独自の釉薬「葆光釉(ほこうゆう)」を駆使した「葆光彩磁(ほこうさいじ)」といった独創的な技法を確立しました。幻想的で柔らかな色調、格調高い意匠によって、彼の作品は日本美術界で高く評価されるようになります。
1917年には日本美術協会展で最高賞を受賞。その後、帝国美術院会員や帝室技芸員といった栄誉を受け、近代陶芸家としての地位を不動のものとしました。
晩年の社会貢献と人間味
1953年には陶芸家として初めて文化勲章を受章。波山は名誉に驕ることなく、故郷への感謝の思いから、戦没者遺族に香炉や観音像を贈るなどの慈善活動に取り組みました。また、80歳を超えた高齢者に自作の「鳩杖(はとづえ)」を贈るなど、人々との心温まる交流を大切にしました。
最後まで創作に情熱を
91歳でこの世を去る直前まで、波山は創作への情熱を絶やしませんでした。最晩年に制作された《椿文茶碗》には、年齢を感じさせない卓越した技巧と表現力が宿っています。
遺産と今日の評価
代表作《葆光彩磁珍果文花瓶》は、明治以降の陶磁器として初めて国の重要文化財に指定され、彼の芸術性の高さを証明しています。その作品群は東京国立近代美術館、出光美術館などに所蔵され、今も高く評価されています。
また、故郷の筑西市には「板谷波山記念館」が開設され、彼の偉業と精神を次世代へと伝えています。
陶芸を超えて美の境地へ
板谷波山は、陶芸を「工芸」から「芸術」へと昇華させた先駆者でした。伝統と革新、技巧と精神性を兼ね備えた彼の作品は、今なお多くの人々に深い感動を与え続けています。
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